925 長い前置きのあと / 「っぽく」ならないこと
なぜか今ごろになって。
◆長い前置き
このブログはろくでもないことしか書いておりません。
あまりにもちゃんとしていません。
しかし「ちゃんとしよう」と思った途端に全く何も書かなくなってしまうのが私なので、このブログは「きちんとしていないこと」を書く場所だということにしています。
◆発表の達人
世の中には、いきなり他人の作ったプレゼン資料をもらって、スライドの順番を入れ換えたりするだけでいきなり(最初からよく考えられたシナリオがあったかのような)内容のある名プレゼンをしてしまう人がいます。
生まれながらの才能もあるのだと思いますが、そう考えると話が終わってしまうので、そうではないという事にしてちょっと考えてみます。
事前によくよく考えてプレゼンを何回もしているうちにそんな達人になるのでしょうか?私が思うに、達人にはなるだろうけれどこれは種類が違います。これはきちんとする訓練が主であって、素ではないからでしょう。
普通の人が事前準備なしの「天然のプレゼン能力」を使うと聞くほうが迷惑という話になります。しかし、まれに天然で鑑賞に耐えうるレベルの人が居て、そういう人が達人なのだと思います。
今の世の中はゆとりがありません。なんでもかんでも「今すぐ役にたつもの」です。鑑賞に堪えない天然の能力を何回も披露できるようなゆとりは無いのが普通でしょう。
◆文章
何も考えずにいきなりだらだらと書き始めても薀蓄があってきちんとした文章を書ける人が稀におられます。
基本的には同じだと思います。
新聞記者は、実に新聞記事らしい文章を文章の長さまで指定してあっという間に書けると聞きます。内容のない取材資料を渡されて、「これ800文字くらいで」と言われても書き直しもせずにいきなり「それっぽい」文章が書けてしまうそうです。
きちんとする訓練というのはこういう感じなのだろうと思います。
立派にビジネスの事を言ってる・・っぽい文章とか、人生を啓蒙している・・ようにみえる文章もおそらく同じだと思います。
そして、文章が本当に何を言っているのかなんて気にしない人が大半だからでしょうか、「っぽい文章」の方が本物の文章よりも人気が出ます。あるいは、そうだからこそ、「っぽくなること」と本当に中味があることが(当人すら)区別出来なくなって、「っぽく」まろうとすることの方が流行するのだろう、と思います。
天賦の才能のない人が、「っぽく」ならならず、なおかつ成長するにはどうしたらいいのでしょうか。
まず、「っぽい」に捕まらないようにする事。そのうえで、何かの水準に達する事自身を目的にせずに何かしら書きつづけてみたらどうなのだろうと考えるようになりました。
おおよそそういうことなどを考え、他の事情などもあって、このブログを書いています。
このブログはそういう意味で実験のようなものです。
なぜ?
さあ。
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